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大川の歴史

風浪宮
 
木工の町として知られる大川市にその歴史を千八百余年として鎮座する風浪宮【ふうろうぐう】。
地元の人々には「おふろうさん」と呼ばれ親しまれている神社である。
「風浪」という社号の由来は九州の地にゆかりの深い神功皇后【じんぐうこうごう】と関係している。神功皇后が三韓征伐【さんかんせいばつ】からの帰途に海上で波浪の難に遭いながらも無事に筑後国に辿り着き、ここ大川の榎津に立ち寄った時、皇后の御船のあたりに白鷺が忽然と現れ飛び去った。皇后は「あの白鷺こそ我らを風浪の難から守護し給うた海神少童命【ワダツノミコト】の御化身」と信じ、武内宿祢【たけのうちすくね】に白鷺の止まる所を尾けさせ、その地を聖地として「少童命を祭れ」と命じたのだという。そして、その白鷺が止まったのが大楠と言われる。
「白鷺の楠」と呼ばれ推定樹齢2000年、県の天然記念物に指定されており、
本宮の御神木である。
朱色の映える拝殿・本殿であるが、現在のものは戦国時代・筑後国柳川城主の蒲池鑑盛【かまちあきもり】によって永録3年(1560)に再建されたもので国指定重要文化財(明治39年5月指定)となっている。
その他、同境内にある石造五重塔も国の重要文化財に指定されている。
拝殿の脇には阿曇磯良丸【あづみいそらまる】の木像がある。
阿曇磯良丸は祭神である少童命を祖神とする海の神とされ、神功皇后の三韓征伐において軍船の海上指揮をとるなどその成功に大きく貢献したのだという。
そして本宮を祭った際、阿曇磯良丸を初代宮司として留めたと伝えられている。
今日、船の名前に「・・丸」とつけるのは海神・磯良丸の「丸」に由来するという説もあるのだそうだ。
祭事は「おふろうさんまつり:風浪宮大祭」として毎年2月8日の夜から執り行われる「裸ん行」という伝統行事を皮切りに翌日からの3日間で15万人余りの参拝客が訪れる盛大なものがある。
筑後川昇開橋
【歴史】
昭和10年5月25日 開通(国鉄佐賀線)
昭和62年3月27日 廃止(国鉄佐賀線)
平成8年4月29日 筑後川昇開橋遊歩道開通
平成8年12月26日 国登録文化財
平成15年5月30日 国指定重要文化財
文化財としての正式名称は旧筑後川橋梁(筑後川昇開橋)

【構造】
方式 昇開式可動橋
鉄橋の長さ :507メートル
可動橋の長さ:24メートル
可動橋の重さ:48トン
鉄塔の高さ :30メートル
筑後川昇開橋の全長は約507mで、その建設には大変な苦労があったと伝えられている。
橋脚の深さは約15~18mと記録されているが、有明海は干満の差が大きく、水面が一定でないため掘削作業は困難を極めた。そして、橋桁を架けるときは船で運び、潮と浮力を利用したと記録されている。
また、筑後川の水面も有明海の干満の影響を受けて一定ではなく、干潮の時は可動橋が降りていても、小船は通ることができるようになっているが、中型船以上は列車通過まで一時ストップしなければならなかった。
このようなことは佐賀線設置の時に船舶会社と協議され、列車通過以外は船舶が優先されることが約束され、それがもとで昇降式可動橋が作られたといわれている。この昇開橋は橋脚と橋脚の間が約26mで、そこに架けられた約24mの鉄橋が約23mの高さまで上るようになっている。
このような可動橋は清水港線の巴川鉄橋にもあったが、現在では廃止されている。
昇開橋の主な構造は、鉄塔の高さ約30m、可動橋の自重約48t、約20tのウェイトが両側の鉄塔に下がっている。また、外見されないが、機械室側の20tウェイトの中に約8tの補助ウェイトが入っている。
48tの可動橋が動き出すとき、20tウェイト2個と8tの補助ウェイトを組み合わせ、モーターに負担をかけないようにしている。また、平衡ワイヤにより左右のバランスをとり、強風にも耐える構造となっている。
【お問い合わせ】

財団法人: 筑後川昇開橋観光財団
住所: 福岡県大川市大字小保614-6 TEL: 0944-87-9919 営業時間: 9:00~17:00
古賀政男記念館・生家
古賀政男記念館は彼の偉業をたたえ、これを永遠に記念するために、幼年時代を過したふるさと福岡県大川市の生家近くに建設され、昭和57年3月1日から開館されました。
鉄筋コンクリート造平家建て、延面積367㎡、中央部の白亜の塔と、ト音記号のレリーフを中心に展示室、オーディオ装置などがあり、愛用の楽器・遺品や数々の古賀メロディーを通 じて、人間古賀政男73年の歩みをたどることができます。
【展示ホール】
愛用のギターやマンドリンの数々、受賞杯等を展示。レッスン室・書斎の一部を復元。
【プロフィールと時代背】
古賀政男の生涯と主な作曲年及びその時代背景がわかる。
【第2展示室】
ビデオ装置や主要100曲の中からリクエストされた曲が聴けるオーディオ室。
この生家は、明治初期に母屋部分、また昭和の初期に離れ部分が増築されたと推定されるものを復元し、昭和58年7月25日から一般 に開放されました。
我が国の歌謡史上に不滅の足跡を残し日本人の心にふれる数多くの名曲を生み出してきた古賀政男は、大正元年8月(当時7歳、田口尋常高等小学校2年)まで、ここに住んでいました。